大判例

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東京高等裁判所 昭和50年(う)1279号 判決 1975年12月23日

被告人 遠山道夫

主文

原判決を破棄する。

被告人は無罪。

理由

控訴の趣意は弁護人鶴岡誠提出の控訴趣意書記載のとおりであるから、これを引用する。

所論は、法令適用の誤りおよび事実誤認を主張し、本件事故は、対向車が交通法規を守らず、また前方を注視せずに突然被告車の進路前方で右折を開始し、危険を察知して停車した被告車に衝突してきたものであつて、被告人はむしろ被害者である、被告人には道路中央付近を進行してきた対向車が突如中央線をこえて違法な右折をしてくることまで予見する義務はなく(信頼の原則)、過失がないから無罪であるという。

原審記録および当審での事実取調の結果によると、本件事故現場は、東金方面から茂原市腰当方面に通ずる幅約六・六三メートルの国道一二八号線(両側に歩道がある)に、本納駅方面に至る幅約六・三メートルの道路が丁字型に交わる、交通整理の行なわれていない交差点付近であること、被告人は右国道上を普通乗用車を運転して腰当方面に向い時速約四五キロメートル(以下単にキロという)で進行し右交差点に差しかかりこれを直進しようとしたところ、交差点手前の横断歩道上を三人の子供が右から左へ横断してゆくのが眼にとまつたので多少減速したこと、さらに若干進み、約二一メートル前方で子供のうち二人が横断を終えて左側歩道にあがり、他の一人が歩道から約七〇センチないし一メートルはなれた地点に立ちどまつて向かい合つているのを見るや、子供たちの万一の不測の動きにそなえてやや右にハンドルを切り一瞬道路右側部分に若干はみ出して進行したこと、そのさい被告人は、約五二・七メートル先の対向車線上を被害者杉崎の運転する原動機付自転車(以下杉崎車という)が時速約一五キロないし二〇キロで進行してくるのを目撃したが、これとすれちがう前に自車線にもどることができると考えていたと思われること、折柄杉崎は交差点で右折するため進路を次第に中央線寄りにとり、交差点の約九メートル手前でなお一人が車道の右端に立つている子供たちの前記の様子を、またそのころ被告車が中央線を若干右にはみ出して進んでくるのを認めたが、同車が子供たちの動きに関連して交差点の手前で停止してくれるものと思い、同じ速度のまま交差点に達する前に右斜めに右折していつたこと、それは被告車が左にカーブして自車線にもどろうとしたときであつたが、被告人は、約二六・五メートル先で杉崎車の右折合図を認め、杉崎が下を向いて被告車の動静に気ずかないで右折してくるおそれがあるように思われたので同車との衝突の危険を感じてブレーキをかけたこと、しかし間に合わず、被告車の停止寸前または直後にその前部中央が制動しないで進んできた杉崎車に衝突したこと、衝突地点は被告車が交差点をわずかにこえたところで、中央線より約〇・八メートル被告車線に入つた場所であること等の事実が認められる。これらの事実に徴すれば、本件はほとんど一瞬ともいえる短時間の出来事で、被告人や杉崎が捜査官にそれぞれ自認しているように、いずれの運転方法にも問題があり、本件事故の発生原因については、かなり微妙な点がある。そこで以上の事実をふまえ、本件事故が果して被告人の過失によるものと認められるかどうかを検討する。

原判決は、本件では「被告人は、……対向して進行してきた杉崎和運転の原動機付自転車が道路中央線に寄つて進行してくるのを約五二・七メートル先の地点に認めたのであるから同車が交差点で右折することが予想されるので道路右側部分にはみ出て進行すると同車と衝突するおそれがあつたから直ちに減速徐行して同車の動静に留意しつつ道路の左側部分を進行しなければならない業務上の注意義務があるのにこれを怠り……」と判示している。これらの義務のうち、まず道路左側進行の義務について検討する。前記の道路状況、両車の各速度・進路、衝突地点などからみると、もし杉崎が直進車の進行を妨げてはならないとの原則に従い、被告車の動静に留意しつつ、交差点の中心の直近の内側で右折するよう中央線にそつて徐行するなど正規の右折方法をとつていれば、その前に被告車が自車線にもどり杉崎車との衝突をさけることは十分可能であつたと思われるのであつて、本件事故は、杉崎が被告車の動静に注意しないで無理な右折方法をとつたため発生した蓋然性が大きく、被告車が交差点の手前で一時道路右側部分にはみ出したことがその原因であつたと認めることは困難である。そのことは、杉崎自身が「直進してくる被告車の動静に注意しないで右折しようとした自分の右折方法が悪かつた、これが事故の原因であると思う」旨(司法警察員調書)、あるいは「被告車が停止しまたは徐行してくれると思いその前に右折できると思つた」旨(検察官調書)あるいは「オートバイは当時の速度だとブレーキをかければ二メートルくらいでとまるが、相手の車がとまつてくれると思いブレーキもかけなかつた」との旨(原審公判)述べており、被告車が道路右側部分にはみ出したから右折したなどとはいつていない事情からも裏づけられると思われる。したがつて、本件において被告車に道路左側進行の義務およびその違反があり、これが事故発生の原因であると断ずるのは相当でない。

つぎに被告車の減速・徐行義務についていえば、被告人としては、右のような状況のもとでは、対向してくる杉崎車が突然直進する自車の進行を妨げるような形で右折してくることはあるまいと考え、それを信頼して進行するのが普通であり当然であるから、原則として杉崎車との関係で減速徐行すべきであつたと解するのは疑問である。問題は、子供の一人がなお車道の端に立つていた当時の状況のもとで被告車に停止あるいは徐行の義務があり、そうしてくれると思つて右折してきた杉崎の判断に無理がなかつたかどうか、また被告人にかような杉崎の判断・杉崎車の動きを予見して停止あるいは徐行すべき義務があつたかどうかにある。しかし前記子供らの状態には、突然被告車の進路前方に引きかえしてくるような具体的な危険性があつたとは思われないこと、他には横断歩道上あるいはその付近に横断中の、あるいは横断しようとする人影はなく、被告車が一時道路右側部分にはみ出したのは、専ら子供たちの万一の不測の動きを慮つて、のことであるとみられること、むしろ道路幅、子供の立つていた位置、被告車コロナマークIIの車幅(約一・六メートル)等からみると、そのまま直進することも可能であつたと考えられること等の状況に徴すれば、停止あるいは徐行することは、望ましいとはいえても、道路交通法三八条一項の「……進路前方を横断しようとする歩行者がいないことが明らかな場合」に全く該当しないと断定し、「横断歩道の直前で停止することができるような速度で進行しなければならない」とするにはちゆうちよするものがある。したがつて「被告車が停止または徐行してくれると思い、その前に右折しようとした」という杉崎の判断には、同人が子供たちの動静につき被告人とほぼ同様の認識をもつていたと認められる事情のもとでは、いささか無理があり、被告人にかような杉崎の判断・杉崎車の動向まで予期してこれとの衝突を回避するため、停止あるいは徐行すべき義務があつたと認めるのは相当でない。

最後に杉崎車の動静注視・安全確認義務について一言すると原判決は、「……杉崎運転車両との安全を確認しないで」との旨判示しているが、被告人は杉崎車を約五二・七メートル先にみとめその後同車が中央線寄りに進み右折信号を出したのに気づいていること(ただ、いつ右折信号を出したかについては、両者の言い分には若干くい違いがみられるが、この点は被告人の過失の有無を判断するについてほとんど影響ないと思われる)、被告人は原審公判ではもちろん司法警察員に対しても、「杉崎が下を向いて被告車の動きに気づかない様子であり右折してくるおそれがあつたので万一の場合を思つて直ちにブレーキをかけた」との旨述べており、この供述は、杉崎車がブレーキをかけた形跡のない状況からも首肯できること、このように被告人としては、杉崎車が中央線寄りに進み右折信号を出したのに気づいていたのはもちろん、その後の同車の動きにも、相当の注意を払い、衝突回避のため、できるだけの措置を講じていたと認められるのであつて、当時の状況のもとで被告人にこれ以上のことを期待するのは酷であると思われること等の状況に徴すれば、「被告人が……児童との衝突にのみ気を奪われ」、杉崎車との「安全を確認しないで」進行したと認めることはむずかしい。

以上に説いたところから明らかなように被告人の運転にやや慎重を欠く点があつたことは否定しがたいが、被告人に原判示過失があり、これが原因で本件事故が発生したとするについては種々の疑問を免れない。したがつて原判決には判決に影響を及ぼすこと明らかな事実があるといわなければならない。論旨は理由がある。

そこで、刑訴法三九七条一項、三八二条により原判決を破棄し、同法四〇〇条但書に従い自判する。

被告人に対する公訴事実(予備的訴因)の要旨は、「被告人は、自動車運転の業務に従事するものであるが、昭和四七年七月一四日午後三時一五分ころ、普通乗用自動車を運転し、千葉県茂原市本納一八五一番地先丁字路交差点を東金方面から腰当方面に向かい時速約四五キロメートルで進行中、交差点入口に設けられた横断歩道上に佇立している児童を約二一メートル前方の地点に認め児童の不測の行動に備えて道路右側部分にはみ出て進行しようとしたが、当時対向してきた杉崎和運転の原動機付自転車が道路中央線に寄つて進行してくるのを約五二・七メートル先の地点に認めたのであるから、同車が交差点で右折することが予想されるので道路右側部分にはみ出て進行すると同車と衝突するおそれがあつたから、直ちに減速徐行して同車の動静に留意しつつ道路の左側部分を進行すべき業務上の注意義務があるのに、これを怠り、横断歩道上に佇立する児童との衝突を避けることのみに気を奪われ、右杉崎運転車両との安全を確認しないで道路の右側部分にはみ出て前記速度のまま進行した過失により、右折しようとして道路中央付近まできている杉崎運転の車両と約二六・五メートルに接近して衝突の危険を感じ、左に転把して急制動したが間に合わず、同車に自車を衝突させ、よつて同人に加療約六か月間を要する左大腿骨々折等の傷害を負わせたものである。」というのであり、主位的訴因の要旨は、被告人の過失について、「杉崎運転の車両の動静に注意して徐行して安全な地点ですれ違うか、一時停止して避譲すべき注意義務がある」とするほかは、ほぼ予備的訴因のとおりであるが、右に説示したとおり、いずれについても合理的疑いを免れがたく結局犯罪の証明が十分でないことになるから同法三三六条により被告人に対し無罪の言渡をする。

そこで主文のとおり判決する。

(裁判官 横川敏雄 柏井康夫 中西武夫)

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